【有松絞り】着てこそわかる「味」――竹田嘉兵衛商店:有松絞りの世界


竹田嘉兵衛商店は愛知県名古屋市緑区・有松に本社を置き、有松絞りの製造・販売を行う会社。有松絞りの祖とされる竹田庄九郎から続く、実に400年以上の歴史を持つ。高い技術と品の美しさが評価され、ドラマへの衣装提供やアパレルブランドとのコラボなども行っている。

そんな竹田嘉兵衛商店の常務・竹田眞敏氏に、お話を聞いた。氏によれば、手仕事の生み出すグラデーション、「味」が有松絞りの唯一無二の魅力だという。そんな有松絞りの技術と感性を受け継ぎ、未来に繋いでいく営みを取材した。
はじめに
絞りという技法
「絞り」とは、糸で括ったり縫ったりして生地の一部に力をかけた状態で染め、絞った部分と、力がかからず染まった部分とで色々な模様を生み出す染色技法のこと。
絞り染めは世界各地で古くから行われてきた技法で、起源についてはっきりとしたことはわからないが、各地で様々な技法が発展してきた。現在記録の残っている中で最も古い「絞り染め」は、インドの古代文明・インダス文明の「バンダニ (Bandhani)」とされ、紀元前4000年から続くという。

そしてインドに留まらず、ユーラシアやアフリカ、アメリカ大陸の文明に至るまで、各地で多種多様な「絞り染め」が行われ、発展してきた。近年でいうと、1960~70年代のヒッピー・ムーブメントで広まった「タイダイ (Tie-Dye)」が、2020年代に再び流行をみせた。これも「絞り染め」の一種といえる。

日本の絞り染め
日本の絞り染めは、その手法の豊富さと精緻さに関して、世界においても類のないものといわれる。
絞りという技法自体は古くに中国から伝わったもののようで、具体的な伝来時期についてははっきりしないものの、少なくとも奈良時代には既に行われていた。それは当時の染色技法「三纈(さんけち)」の一つ「纐纈(こうけち)」と呼ばれており、正倉院の宝物として現存する。
-1200x540.jpg)
[https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000029894&index=20]
平安時代になると貴族の装束は織文様のものが中心となり、貴族文化においては絞り(纐纈)は一時退潮した。しかし室町時代以降になると、民衆の中で伝承されてきた素朴なものから発展し、絞り染めは再び脚光を浴び始める。安土桃山時代に流行した「辻が花絞り」などはその代表的なもの。そして江戸時代、民衆による豊かな文化の中で、絞りは空前の発展を見せる。

↑描かれている3人全員が絞り染めの衣類を身に着けている。襦袢や裏地、帯、腰紐、襦袢・塵除け代わりの浴衣、手拭いなどなど。

インタビュー:有松絞り
有松絞りのはじまり
――有松絞りの歴史について伺ってもよろしいですか?
「1603年、徳川家康が将軍となって江戸幕府が開かれました。交通網の整備の一環として、京都・大坂と名古屋、江戸を結ぶ東海道にも宿場町を設置することが定められました。」
「有松のすぐ近くにある鳴海という町が東海道で40番目の宿場とされたんですが、当時の鳴海周辺は人も住んでおらず、丘陵の合間に松林が生い茂り、街道は荒れていました。時には盗賊の類も出没し、旅人に危害を加えることさえあったとか。そこで安全のため、尾張藩は鳴海宿の近くに新しい集落として「有松」を設け、人を移住させることにします。そのときに知多から移住してきたのが、有松絞りの祖・竹田庄九郎です。それが1608年のことです。」
有松絞りの起源について、以下のような話が伝わる。
集落ができたばかりで産業もなく、農業にも向かない有松の土地。村人たちはこれからどうやって暮らしていくかに悩んでいた。そんなとき、名古屋城を築城することとなり、全国各地から労働者が集められた。豊後(ぶんご、今の大分県)から手伝いに来た人々が使っていた「豊後絞り」の手ぬぐいにインスピレーションを受けた竹田庄九郎が、地元・知多の木綿を使って作り方を研究し、独力で生み出したのが「有松絞り」の始まりである。
後に尾張藩が有松に絞りの独占権を与えたことで、有松絞りは特産品としての地位を確固たるものにした。東海道を通る旅人の土産としても大変な人気を博し、近くの宿場町の名から「鳴海絞り」や「有松・鳴海絞り」などとも呼ばれることにもなった。


絞りの種類
―― 有松には特にたくさんの技法があると聞きました。
「世界で100種類ほどの技法が過去に考案されてきましたが、そのうち70種類以上が有松で作られました。一つの産地にこれだけの技法があるのは、全世界を見渡しても他に例がありません。」
以下は絞りの技法の例。※数が多いため、ここでは一部に留める。
鹿の子絞り:
生地の一部を細かく糸で括り、強く締めることで染め抜きをする技法。絞る場所を調整することで文様を描き出すこともできる。


縫い締め絞り:
糸で縫って固く締めることで防染する。縫い方によって全く異なる文様が生まれるため、非常にバリエーションが多い。

やたら三浦絞り:

巻き上げ絞り:

杢目絞り:

唐松絞り:

嵐絞り:

手筋絞り:

帽子絞り:

etc…
―― 全て挙げていくと、それだけで何時間もかかりそうですね。
「本当にたくさんありますからね。でも絞り方だけじゃなくて、同じ技法でも違う呼び方があったりもするんです。」
「私が下に着ているこれは『手で筋をとって絞る』ので、私たちはよく『手筋絞り』と呼びますが、他にも絞った状態の見た目、できる文様の形などから『竜巻絞り』とか『柳絞り』とか、思い思いに呼ばれてますよ。」

――混乱してきました。
「でもそれが面白いところでもあるんです。呼び名がたくさんあるということは、過去にそれをわざわざそう呼んだ、そういうこだわりを持って愛してくれた人がいる、ということでもありますから。」


かつて「手筋絞り」や「柳絞り」、「竜巻絞り」と呼んだ人がいた。「そう呼ぶ方がカッコいい」とか「粋だ」と敢えてそう呼んだのかもしれないし、単に名前を知らなかっただけかもしれない。しかし少なくともそれは、作り手はもちろんのこと、それを運んだ人、広めた人、そして身に着け愛好した人々の存在、そして感性を今に伝えている。彼ら彼女らは、歴史に名前こそ残っていないが、絞りという民藝品を手に取った私たちの前に現れるのである。
有松絞りの魅力
――有松絞りの魅力はなんだと思いますか?
「なんといっても色のグラデーションです。絞った部分と染まった部分の間にできる絶妙なにじみが『味』になるといいますか。同じ作り手が同じ技法・同じ染料で作っても、同じものは絶対にできませんから。」
絞りが手仕事である以上、折り方・縫い方・しばり方や糸にかける力、そして様々な偶然性によって、出来上がりは全く変わる。そこには、職人とお天道様の息遣いがダイレクトに現れるのだ。
「今はなんでも機械で綺麗に作れてしまう時代でしょう。手作業が必要な絞りは正直なところ、安いものではありません。でも、やっぱり手仕事には手仕事でしか出せない『味』というのがあるんです。」
――手仕事の「味」……「粋(いき)」に近いものでしょうか。
「通ずるところは大いにあるでしょうね。これは私個人の肌感覚ですが、うちの品は関西でよりも東京での方が人気がある感じがするんです。粋を好む江戸っ子の美的感覚みたいなものが残っていたとしたら、とても面白いですね。」
「江戸時代ほど万人に、とまでは言えませんが、今でも刺さる人には本当に深く刺さるものです。『いいな』と思ってくれた方には、ぜひ手に取って、身に着けてみてほしいと思います。」
――「江戸っ子」という言葉が出ましたが、有松絞りはどちらかというと庶民派なイメージなのでしょうか。
「ええ、絞りでも『京鹿の子』は上品な感じがしますが、当時の有松絞りは麻や木綿に施され、庶民の日常生活を彩りました。」

「今から100年前に『民藝運動*』というのがあったでしょう。有松絞りもそこで取り上げられて、『民衆の実用品』としての美しさが高く評価されたんです。」
*哲学者・美術評論家・思想家の柳宗悦(やなぎ むねよし)らによって提唱された文化運動。鑑賞用の美術品と比べ実用の工芸品が低く見られる風潮があった中、名も無き職人の手から生み出された日常的な生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、民藝には美術品に負けない美しさがあり、美は生活の中にあると唱えた。
「だからこそ、ウチは敢えて作家の名前を前面には出さず、落款も押さないんです。芸術作品ではなく、実用品ですから。」
「確かに私たちはいくらでも蘊蓄(うんちく)を語れますけど、それだけでは意味がない。着姿を気に入ってもらえるかどうかなんです。『情報』を買ってもらうのではなく、『着るもの』を買ってもらうわけですから。服は着てこそ。本来それだけなんです。」
有松絞りのこれから
「日本の伝統工芸の多くが危機に瀕していますよね。有松絞りも例に漏れずそういう部分があります。」
「有松には歴史的な町並みが残っていますけど、高度成長期なんかに『再開発されなかった』んではなく、『再開発するお金がなかったから残っただけ』なんじゃないかと私は思いますよ。今でこそ古い町並みが再評価されるようになりましたけどね。」
そう言って竹田氏は笑った。
「でも、有松絞りが危機に瀕したことは過去にもありました。村が全部燃えてしまった大火災、街道が衰退した明治時代、人も物も失われた戦争。そのたびに職人さんや商人たちが試行錯誤して、なんとか繋いできました。」
――そういえば、戦後にはアフリカの国々へ沢山輸出されて、有松絞りは復興を遂げたと耳にしたことがあります。
「そうですね。特に戦後は海外へも視野を広げました。1992年には有松で『国際絞り会議』が開かれ、以来数年おきに世界各国で開催されています。今でも国際交流が活発に行われているんですよ。」
「また、職人さんたちも技術を未来に繋げようと努力してくれています。手筋絞りを1人で作ってくれていた職人さんは、職人としてはほぼ引退してしまったんですが、今は後継者の育成に力を入れてくれています。」

「この『みどり絞り』なんかは、何十年も前に途絶えてしまった技術でした。でも素敵なのでぜひ復元してみたかったんです。職人さんと長いこと話し合い、『責任は全部持つから』とバックアップして研究を重ね、作ってもらいました。すると面白いものができた。」

そんな竹田さんは、2025年いっぱいで引退し、次の世代に席を譲るのだという。
「私は電子機器なんかには詳しくないし、時代は変わっていきますから。やっぱり世代交代していかないと。今まで仕事で全国を駆け回ってきましたが、ビジネスホテルと営業先の往復ばかりで。来年からは、各地の面白いもの・素敵なものをもっと深く見て回りたいですね。」

きっと、有松絞りはこうやって世代を超え、継承されてきたのだろう。始まりから四百年余。その飾らない粋な心は、今もなお受け継がれている。
