世界の更紗:あまりに深く、広すぎる歴史

はじめに
きもの、伝統文化を扱った記事を作っていると、どうしても視点が内に向いてしまいがち。そんな自戒も込めて、今回は「グローバルな広がり」に着目してみました。
文化とは、影響し合い、時に混ざり合い、時に反発し合い、共に育ってきたもの。「更紗」という切り口から、その複雑さと重層性、深さと広がりを紐解くことを試みます。
かなりマニア向けになってしまいましたが、ご興味のある方はぜひご覧ください。なお、「世界の更紗」に注目した結果、「和更紗」についての記述は概略程度にとどまってしまいました。そちらについてはまた別の機会に。
「更紗」ということば
日本語の「更紗」という単語は、狭い意味ではおよそ「インドでつくられた木綿の染布」のことを指しますが、一般に「エキゾチックな文様の布全般」程度のとても広い意味でも用いられているように思います。日本では、国内でつくられるようになった「和更紗」のほか、海外のものとしては「インド更紗」やインドネシア・ジャワ島の「ジャワ更紗」などが有名です。
しかし、日本で「更紗」と呼ばれるものが、他の場所・言語でも「さらさ」と呼ばれているわけではありません。現代のインドでは「サラサ」といってもあまり伝わらないのだとか。
そもそも「サラサ」という言葉の語源は、当時のインドで「多彩で上質な木綿の布」をさした “saraso, sarasses”(リンスホーテン『東方案内記』)などとされ、貿易品として日本に持ち込まれる際、商品とともに呼び名も伝わったといわれています。ちなみに呼称には揺れがあり、「皿紗」や「佐羅紗」といった別のあて字や、「華布」や「印華布」といった中国語で更紗のことを指す言葉、タイ(=シャム)との交易からももたらされたため「紗羅染・暹羅染(しゃむろぞめ)」といった言葉が用いられることもあったようです。「更紗」という呼び名と表記が固まったのは、実は江戸時代後期頃だといいます。
また、当初は「パトラ」(インドの経緯絣織物)や「イカット」(インドネシアの絣織物)、「グリンシン」(インドネシアの経緯絣)などの絣織物も技法では区別されず、舶来の「更紗」の一種として輸入されていたようです。
ジャワ更紗は日本でも「バティック」という現地の呼び名で呼ばれることがありますが、それ以外は大まかに「更紗」と括ってしまうか、ヨーロッパでの呼称 “chintz”(チンツ) “calico”(キャリコ/キャラコ) 等を使うこともあります。
各地の「更紗」
インド更紗

更紗の「祖」といえるインド。インドではきわめて古くから木綿布の染色が行われていたことがわかっています。少なくとも今から4000年以上前となるインダス文明の時代には鮮やかな染色布が作られていました。古くから金属媒染の技術が使われていたようで、色の鮮やかさ・落ちにくさから珍重されました。古代から既に盛んに輸出されていたようで、古代エジプトの遺跡でミイラを包む布として発見されたり、ローマ帝国が多く輸入していたという記録があったりもします。
インド更紗は藍と茜を中心とした鮮やかな青と赤がとくに特徴的です。もちろんそれ以外の色も用いられますが、この華やかさと配色はなかなか他の場所ではみられないのではないでしょうか。

インドの更紗は主に、手描きと木版によって描かれます。カラムカリ(kalamkari ※kalam=ペン)と呼ばれる手描きや、木版を用いて染料や蝋、媒染剤等を使い分け、色とりどりの精緻な文様を生み出しました。


ジャワ更紗(バティック)

(画像出典:Rare Books in the Metropolitan Museum of Art Libraries)
13世紀末頃にインドネシア・ジャワ島の王侯貴族の女性を中心にバティックが作られ始めましたが、緻密な柄に時間を要するバティックは当初、庶民にとっては採算のとれないものでした。16世紀末頃から、海上貿易の増加と需要増大によって、庶民たちも商品としてバティックの製作を行うようになりました。
インドネシアは海上交通の要衝でもあったため古くから人の往来も多く、インドや中東、中国、西洋などからさまざまな文化が流入し、それらの蓄積の上に、各地で独自の文化が育まれてきました。

(画像出典:東京国立博物館ウェブアーカイブ)
例えば、ジャワ北部は中国との歴史的な繋がりも深く、神獣や瑞雲など中国の吉祥文様を取り入れたものもみられます。特に19世紀以降は華僑も更紗の生産に参入し、はじめ華僑コミュニティで用いられ、時代とともにバティックの一般的な模様としても馴染んでいきました。

ジャワ更紗(バティック)は、当初白と藍のシンプルなものが一般的だったようですが、18世紀頃に「ソガ染料」という茶褐色の染料が広く用いられるようになり、インド更紗とは異なる独特の情緒がみられます。その鮮やかすぎない色合いが、日本で人気の理由なのかもしれません。

制作時期は20世紀ですが、白と藍だけのクラシカルな様式のバティックです。

茶色と白黒の色彩が特徴的です。「バティック」といえばこうしたくすみのある色彩をイメージする方が多いのではないでしょうか。

バティックは、「チャンティン(tjangting)」と呼ばれる漏斗のような道具を用い、熱し融かした蜜蝋で図柄を染め分けるものが主流でした。バティックには点描の技法がよく用いられますが、この道具との親和性によるものでしょうか。

(画像出典:Rare Books in the Metropolitan Museum of Art Libraries)


近代以降には化学染料や型による蝋置きや染め、プリント技術なども積極的に導入され、「バティック」は変化を続けています。
世界中の「更紗」
インドやインドネシアのものが有名とはいえ、「更紗」はそれ以外の地域でも多く作られました。タイなどの東南アジア、ペルシア、中国、日本、またヨーロッパなどのものが知られています。


ヨーロッパと更紗
インド更紗、特に白地の花柄や唐草文様などのものは「ヨーロッパ風に見える」という言葉も耳にします。しかしこれはむしろ順序が逆で、「近世以降のヨーロッパの装飾がインド更紗の影響を受けている」という方が正しかろうと思います。


たしかに、洋食屋さんでテーブルクロスに使われていてもあまり違和感がないかもしれません……
色鮮やかで美しく、肌ざわりがよく快適で、洗濯にも強く色落ちしにくいインドの更紗がヨーロッパに持ち込まれた際の流行ぶりは凄まじく、ヨーロッパの伝統的な絹織物・毛織物産業が窮地に陥るほどでした。イギリスやフランス、スペインなどでたびたび輸入禁止令が出されましたが、密貿易によって輸入され続けました。それほどまでにインド更紗は人気だったのです。
そして次第にヨーロッパでも更紗が作られはじめ、捺染技術の発達により大量生産されるようになります。
インドはもちろんのこと、中国や日本、中東や東南アジアの品々も含めた「東洋趣味 (オリエンタリスム)」がヨーロッパの美術史の一時代を築き、それは「アール・ヌーヴォー」へとつながっていきます。
日本と更紗

日本において「更紗」は主に南蛮貿易によってもたらされました。室町後期~安土桃山にかけては世界経済の一体化が急速に進んだ時期で、日本でとれた銀を求めてスペインやポルトガル、次いでオランダの商人が来航し、同時に世界中の産品が入ってくるようになります。
突如として流入してきた、今まで見たこともない鮮やかな色をした布に、人々は魅了されました。有力な武家や文化人たちはそれを珍重し、小物や衣服、調度品などに用いました。

当時のインド洋では、「大航海時代」を迎え世界中に進出を始めたヨーロッパ人、アラブ系のムスリム商人、インドや東南アジア現地の商人らが海上貿易で鎬を削り合っており、きわめて活発な経済活動が行われていました。また商人たちはインドや東南アジアの各地に拠点を持ち、組織的に交易を行うようになりました。
ヨーロッパの商人は東アジアへも進出し、日本では「南蛮貿易」、つまり南からやってくる外国船との貿易が始まります。ポルトガルやスペイン、のちオランダが強勢を誇り、江戸時代にはオランダが日本との貿易を独占します。そんな中で舶来の「更紗」も日本に多くもたらされました。
当初は「更紗」といえばインド産のものがほとんどで、舶来品であることから高級品でもありました。そのため、はじめはそれを持つことができたのは大名などの一部の人々でした。
茶人や文化人は「名物裂」を珍重しましたが、それだけでなく、更紗をも包みに使いました。たとえば安土桃山から江戸時代初期を生き、将軍家の茶道指南役にもなった「遠州流茶道」の祖・小堀遠州はインド更紗でも茶道具の包みを作らせたといいます。また、特に庶民の趣味であった煎茶道においては更紗が非常に好まれました。
更紗と思われるものが浮世絵にもたびたび登場します。これらは全て帯に使われていますね。
※この頃には和更紗の生産やヨーロッパ更紗の輸入も多くなっているので、どこで作られたものかは定かではありません。




和更紗
人々の生活に「更紗」が馴染んでくると、日本でも更紗が作られるようになりました。外国との窓口であった長崎、そこから程近い鍋島(佐賀)、文化や経済の中心地であった堺(大阪)や京都、そして幕末には江戸でも作られるようになりました。
はじめは舶来の「更紗」を模倣しようとしたものだったようですが、「型紙」を用いた日本の型染め技法が導入されたり、身近な染料や顔料を用いたりと、自分たちの持てる素材と技術でアレンジされるようになります。


旅する文様
交流と影響
日本語で「更紗」と呼ばれているものは、インドに始まり東南アジア、ペルシア、中国、日本、またヨーロッパなどでも作られてきたことは上述の通りです。
文様やモチーフは、更紗の製作が伝播する前から、ヨーロッパやオリエント、アジア諸地域などで相互に影響しあいながら発展してきたものです。それに更紗製作が伝わってからの交流も加わり、きわめて複雑な様相を呈しています。
例えば、インド産の更紗に地中海のパルメットやオリエントのロータス文起源とされる文様があったり、インドネシア産の更紗にインド神話由来の文様があったり、インド産の更紗に和柄が描かれていたりなど、枚挙に暇がありません。

「縁文様印度更紗(18世紀)」(大隅為三『古渡更紗』, 美術出版社, 1962年. 国立国会図書館デジタルコレクション)









「糸杉手印度更紗」(大隅為三『古渡更紗』, 美術出版社, 1962年. 国立国会図書館デジタルコレクション)
インド更紗の「受注生産」
さらに、商業的な意図で持ち込まれたものもありました。特にオランダ東インド会社(VOC)はインドの拠点に更紗の工場を所有しており、各輸出先から好みの色柄を聞いて図案に起こして工場に送り、インドの職人の手で更紗を生産、各国に輸出していました。
香辛料の生産地であったインドネシアの人々の目は特に厳しかったようで、有力者たちは「好みの柄のものを持ってこなければ、よそと取引する」とオランダ商人に迫っていたといいます。
「鋸歯文様」と呼ばれる三角形を組み合わせたような文様はインドネシアの腰布によくみられるもので、それをジャワへの輸出向けに作っていたことが記録されています。

ウンダリリス模様印金更紗 サロン (画像出典:東京国立博物館ウェブアーカイブ)

花格子文様更紗 (画像出典:東京国立博物館ウェブアーカイブ)
また、日本向けの商品開発も行われており、和柄らしきものが描かれたインド産の更紗が現存します。
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※「彦根更紗」とは、生産地を表すものではなく「彦根藩主・井伊家に伝わる更紗」という意味です。そのほとんどがインド更紗といわれています。
「ペイズリー」について

これはインドのカシミール地方で作られていたカシミヤショールの伝統的な文様で、「イトスギ」という植物をデザイン化したものとされます。またこの文様の先祖は、ペルシアの「生命の樹」というモチーフにあるともいわれます。

のちにイギリス・スコットランドの「ペイズリー (Paisley)」という町でそれを真似た模様のカシミヤショールが作られるようになり、その町の名前が文様の代名詞となりました。

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主要参考文献
・岩永悦子「インド更紗の日本における受容の諸相と展開」2015年.
・太田淳「染織文様にみる南スマトラとインドの関係 17世紀交易記録からの一考察」『東南アジア史学会会報』(65),東南アジア史学会.
・――「交易史の中のインド更紗」吉本忍 編『知られざるインド更紗:南海の島々インドネシアにおける発見』, 京都書院, 1996年.
・大西浩子『インド更紗入門 インドの自然と哲学から生まれた文様の解説と、バティックの技法』, 美術出版社, 1977年.
・小笠原小枝「『さらさ』における技法をめぐって 木版がつなぐインド更紗と鍋島更紗」『伝統と文化』(38), pp.16-21. 2015年.
・――「更紗」『日本大百科全書(ニッポニカ)』
[https://kotobank.jp/word/%E6%9B%B4%E7%B4%97-69915]
・佐藤彰一「西暦一千年紀のユーラシア・インド洋貿易」
・佐藤泰子「近世服飾史における更紗について」
・スジャータ・パルサイ「インド更紗がアジアに与えた影響」吉岡幸雄「染色技術を通した日印交流と祇園祭」前田專學 監修『「日印交流年」連続講演録 インドからの道 日本からの道』2008年.
・松山直子「インド更紗の伝承―技術・伝承地・用途を中心に―」, 2017年.
・吉岡幸雄「染色技術を通した日印交流と祇園祭」前田專學 監修『「日印交流年」連続講演録 インドからの道 日本からの道』2008年.
・吉本忍 編『ジャワ更紗 その多様な伝統の世界』1993年.
・――「インドネシア発見のインド更紗」吉本忍 編『知られざるインド更紗:南海の島々インドネシアにおける発見』, 京都書院, 1996年.
・――「錯綜するデザインの類似性」吉本忍 編『知られざるインド更紗:南海の島々インドネシアにおける発見』, 京都書院, 1996年.
・――『ジャワ更紗』,平凡社,1996年.
