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〈歴史きもの散歩 #1〉大正の「推し活」!? -三越と尾形光琳- 2/2 ビジネスと「推し活」の交わるところ

三井/三越の呉服ビジネスと琳派

ところで、江戸の呉服店は明治時代になると、西洋的な百貨店への転換を目指した。「三井呉服店」は「三越百貨店」へと改まり、従来の「座り売り」から、現在のような陳列方式に変わった。そうした方式では、来店したお客さんに、「新しいものが欲しい」と思ってもらい、また商品を自分で手に取ってもらわなければならなかった。そのためには、流行を生み出し、それを魅力的に発信することが必要となったのである。

琳派の意匠が着物のデザインに適していることは、1/2 で述べたが、ヨーロッパで認められ日本に「逆輸入」された「光琳」は、伝統的なスタイルであると同時に、欧州発の世界的なトレンドの最先端でもあった。三井呉服店(三越百貨店)は当時の文化人たちを集めて「流行会」を組織し、そうした流行に対してアンテナを張っていた。今でいう「企画」や「マーケティング」を、当時から行っていたといえるのである。

「流行会」の中には江戸趣味の好事家も多く、愛好する江戸の「元禄文化」と、組織の目的でもあった「流行」の交わる所にあった「光琳」が彼らの目に留まったのは必然だったのだろう。

かくして、1903(明治36)年頃には「光琳」は日本でも本格的に流行し始めたようで、翌年頃から三越の広報誌でも盛んに取り上げられるようになった。

襦袢付き振袖、光琳波と桜、袖には梅。『花衣  一名・三井呉服店案内』より。
襦袢付き振袖、光琳波と桜、袖には梅。『花衣 一名・三井呉服店案内』より。
光琳波と菊、上前には梅。同上
「光琳式明治模樣新案長襦袢」。1909(明治42)年『みつこしタイムス』7(5)。
同上。

ススキや朝顔などの古典らしいものから、ヒマワリや「海中」など斬新なモチーフを用いたものまである。植物の意匠には曲線が多用され、アール・ヌーヴォーの影響も窺える。ここでは古典的な「光琳文様」だけでなく、かなり斬新なものまで一緒くたに「光琳」と呼ばれているのがわかる。古典と最新が「光琳」という名前の中に並存していたようである。

伝統に参加すること

「光琳式模様」を発信するだけでなく、広報誌では、明治末から大正にかけて2度、「光琳式図案」を懸賞公募している。応募件数は他の懸賞企画と比べても多いことが述べられており、その人気ぶりがわかる。

ところで、以下が1908(明治41)年の懸賞で一等を取った裾模様の図案(その号の表紙)であるが、上のものにも増して、さらに斬新な印象を受ける。人々が笠を被って蓑を纏い、舟を引く情景を、大胆なデフォルメと琳派の技法によってデザインに落とし込んでいる。

1909(明治42年)『みつこしタイムス』7(5)。
「力(引船) 光琳式を其儘に高瀬の船を引く力、笠と蓑との筆豊かに、足の運びの殊に妙なり、表紙とせるが原圖そのまゝ。」

また1915(大正4)年の「新光琳式裾模様」も、様式としての「光琳」をベースにしながら、洋蘭などのモダンなモチーフを取り入れている。

『新光琳模様』より。
「第一等 西洋草花 京都 廣岡伊兵衞氏
紺地に褄先を堤に利かして水苔色に取り蘭科植物アレノプレス*を大きく生色にて現はし地色に出たる部分のみを薄藍とし花は白と黄の中に蕊を金のぼかしとし褄先のデンドルヒューム*は生色と青磁色に白線の流し込みぼかしにて現はし兎角洋畫圖案に流れ安きものを最も巧に光琳式に脱化し優艶にして上品に描きたるところ凡手にあらず大正新光琳式として流行會員の推奨するところなり。」とある。
『三越』5(4)。

※ファレノプシス(胡蝶蘭)、デンドロビウムのことか。どちらも洋蘭の一種。

一般的な梅や流水などの「光琳文様」は、琳派の絵画に特徴的な、デフォルメされたモチーフに由来している。同じ「光琳」といっても、過去の琳派の絵画を直接参照した「直接的な光琳文様」とは異なり、今回取り上げた着物は「琳派に私淑した今風の図案」であり、「間接的な光琳文様」とでもいうべきものである(「私淑」が琳派の特徴である以上、むしろこれこそが正統なる「琳派」と呼ぶべきなのかもしれないが)。

「アール・ヌーヴォー」が日本にも入ってきたことで、その源であるとされた「光琳」は、今のような「古典的な美術」というよりも、「最先端の装飾美術」としての印象が強かったのかもしれない。だからこそ、「トレンドを創る」ために、「そのスタイルを取り入れた新しいもの」を作り出そうとしたのだろう。

おわりに

この時代、着物において「新しい図柄を生み出す」という活動が今よりもはるかに盛んに行われていた。着物の需要も供給も多かった時代にあって、差別化のため、新しいものを買ってもらうため、という目的があったことはもちろん否定できない。皆が着物を着ていればこそ、販売者側としても消費者側としても、着物の中での差別化を提供する「斬新な着物」が求められたのだろう。

しかし現代において、きものを着ることはもはや「大衆の文化」ではなく、ある種の特別な「伝統文化」となりつつある。着物を身につけるだけで、洋服とのどうしようもない差別化が成立してしまう。そうした意味でも、哀しいかな、「新しい図柄」への需要は、当時よりも随分と縮小してしまったことは間違いない。

文化とは布のようなもので、それに関わってきた人すべてが、新しい糸を紡いで、織って、少しずつ延ばしてきたものだ。せっかくこんなに長くて美しい生地をつくり続けてきたのだから、これからも新しい糸を紡ぎ、布を少しずつ伸ばして伝えていってほしいと、微力ながら願うものである。

参考文献

・東京国立近代美術館編『琳派 国際シムポジウム報告書』ブリュッケ, 2006.
・国立歴史民俗博物館, 岩淵令治編『「江戸」の発見と商品化 大正期における三越の流行創出と消費文化』岩田書院, 2014.
・国立国会図書館「本の万華鏡 第20回 「本でたどる 琳派の周辺」」 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/index.html

出典

・『花衣 一名・三井呉服店案内』 三井呉服店, 1899.
・『みつこしタイムス』7(5). 三越呉服店, 1904.
・『三越』5(4). 三越呉服店. 1915.
・山田直三郎 編『新光琳模様』芸艸堂, 1915.

25.06.06
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